2「この処、記事の死んだということ」倩女離魂

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  seesaa
2025/02/05水
    2「この処、記事の死んだということ」倩女離魂


 
 
 
  「死んだ」というのは、自分の中が崩壊しているというか、そんな漢字なのだけど。生きているのだけど死んでいるみたいな。それでも、この両方が同時に自分の中に存在している時という、その感覚というのは、何かこう、盤珪が、自分はすぐに怒ってしまってしょうがないと相談に来た人が、直ったみたいに、それはきっと、その人の中の、自分が自分が、といったような気持ちが鳴りを潜めたのだろう。
  
  盤珪はそれを、人に掛け合う? そんなことはやめなされと、その人に言っているのだが、どうも、そこには俺が俺が、といった姿勢や気持ちがあるのに違いない。

  自分の「死んだ」というのは、そういった部分の、滅死(造語)なのであって、それはどうも、道元、修証義にある、自分というものが「万法に証せらるるなり」といったような、構造でいる。何にしても、元は、おっ母の身近な人の死である。そう思っている。自分もまだ若いつもりでいたのだが、後、数年で父が亡くなった歳と同じになる。
  これは、それに追われるような焦迫、つまり迫って来るような焦りといったもの、そうしたものが、日常ではあったか、まだ、あるようなのだが、死ということの前には、それは観念するしかないみたいなこととなって、自分が鎮まってしまう感じでいる。

 この辺りのことは、以前こちらの日記にも、書いたと思う。焦りということについては、自分でも、そうしたことの実体が掴めないでいた。追われているかのようなことであれば、その、後ろ側、追われていることを、避けてしまうのではなくて、対面すれば済むことである。このやり方は、面白いのだが、不安突入と同じことになっている。不安がそうだが、逃げないでいて、そのままにしているか、そこで、禅問答の修行みたいに、堪えるわけである。そうすると効果がある。たぶん、これは、不安に負けるような自我であれば、その自我が耐えることによって、強くなるのだと思う。
 焦りについては、どうもこれまで、そういうことが自分の中にあるのだ(ろう)くらいのことしか、掴めないでいた。
 だからというか、どうも、自分には焦っていたのか、そうでないのかよく判らないのだが、何しろ、死ぬのだな、といったことを思うと、自分の中の、俺が俺がの部分が鳴りを潜める。静かになるわけである。

 一つ前に上げた記事の中で、漫画の中の自分は、自分なのだけど、現実の自分と漫画の中の自分とは、佐藤の見た中では、開き、乖離があったのだろう。今し方、記事を読み返してみて、漫画の主人公と、実際の自分と、どっちが本物? と立てれば、これは無門関の、映画にもなった、靑女の問答と同じことになる。 「倩女離魂」のこと。

 この時には、やっぱり、自分は原稿に自分が乗り移ったのだろう。でもま、今はそんなことしなくても、描けると思うけども。
 (のりうつる自体が、自分か、その人がそうなるというのは、暗示に弱い人みたいな、その辺での弱さがあるのだかも知れないし。)
  それで、無門関では、「いいお坊さんがあんな風に行くわ」といった、最後の方の則から、最初の則の、「倩女離魂」に戻るみたいなことを、無門は言っている。漫画の自分か、現実の自分か、それの、どっちが本物なのか? といったことである。


 それでも、自分は、無門関を長いこと十数年かかったが通って来て、無門関も、教科書、それも、方便の教科書かも知れないのだが、これも、私らの、諸々の事実の映しとみるしかない。今はそうなっている。魂が抜ければそれは、何というのだか。



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